てっても ふっても

絵と本と珈琲が好きなポンコツかあちゃん。娘ウメちゃん 息子おもち とのプカプカな毎日 その考察。

あえり

おもちくん(2歳)に「ただいま」といったら「おかえり」と返してくれるようになった。

正確には「あえり」ってきこえる。

が、とにかくこれは確実におかえりと言おうとしている!


ただいま
あえり
ただいま
あえり
ただいま
あえり


私とオットとウメちゃんの怒涛のただいま攻撃に、おもちくんは律儀にニコニコと「あえる」。


ただいま!
あえり
ただいま!
あえり
ただいま!

おもちくん!ただいま!!

……

ついにおもちくんが黙ってクッションに顔を突っ伏した。


ごめんごめん。
さすがに辟易したか。



言葉の遅さを検診でも指摘されたおもちくん。
でも、彼の瑞々しい好奇心、世界との向き合い方に、私は根拠なき「大丈夫」を確信している。

(私の方がよっぽど“もんやり”していて心配なやつである。彼を心配しすぎるのは奢りというもんだ。)

それでも、純粋に、彼と会話がしてみたいなあと思う。
ウメちゃんもよくそういう。「おもちくんとおはなししたいな。」

いままで、一方的な呼びかけ(パパ、ママ、待って!など)はあったけど、ただいまおかえり的“コールアンドレスポンス”ははじめてだったから、私たちは興奮した。
自分の呼びかけに対して応えがかえってくるというのはなんとも嬉しいのだ。
会話って楽しい。

ウメちゃんが日がな一日しゃべくり捲っているのにもげっそりしているが、初心忘れるべからずだなと思った。
沢山きこう、はなそう。



大学で英語を専攻していたのに確固とした目標があったわけでもなかった。
それでも一応英語が好きだったし、憧れもあったはずなのに、結局私は在学中TOEICすら1回も受けなかった。
もうすっかり全て忘れてしまって、中学英語すら覚束無い。やれば思い出すんだろうか。でもこの間、古本屋で「これからの時代英語を喋れるようになるは必要ない」的な本を買ってきてしまった。
ダメダコリャ。

確かにこれから時代、翻訳機械の発展もますます目覚しいだろうし、「英語が話せる」こと事態にそんなに重きをおかなくてもいいんじゃないかなあとは思うけど。
大切なのは同じ言語を使って会話して、通じあったり、違いをしったり。相手と自分の“文化”を交換させていくことなんだろう。


手話の会話を目にすると無性に涙が出てしまう。
気持ちが、表現が、はじける。通じあうことの喜びや、そこで生まれる物語が、静寂のなかで確かに弾けて流れていくのがみえる。感じる。
なんて美しいんだろう。
そこに、私の胸をどうしようもなく揺さぶる何かがあって、私はまだそれが何なのか、表現できる言葉がみつけられない。

去年、手話の絵本読みきかせというものをはじめて間近でみた。
こどもたちにむかって全身で物語を表現するその人の背後に控えながら、胸がたぷたぷに満ちるのを感じた。涙がホロホロ零れて、ウメちゃんに心配された。
その気持ちを忘れたくなくて、そのとき読んでいた「スイミー」の絵を家に飾っている。

手話で会話出来るようになりたいなあっていうのは今世で叶えたい目標。
(あと、この胸の揺さぶりを表現する言葉をみつくること。)


あんなに時間とチャンスを与えられれて英語が喋れるようになれんかったなって考えるとずうんと虚しくなる。

一方、手話の中に感じるキラキラを自分にとりこみたいなと考えると、目の前の景色の中に潜んでいた光の粒が弾け出す。

うん。こっちにエネルギー使おうぞ。

人生短し。