てっても ふっても

絵と本と珈琲が好きなポンコツかあちゃん。娘ウメちゃん 息子おもち とのプカプカな毎日 その考察。

ごめんなさい

ごめんね
ごめんなさい

という言葉を乱用しすぎかもしれないなあ

と思う今日この頃。

これ以上謝ってほしくない

とあるひとに言われた。

厳しい。
でも仕方がない。

ごめんといわれたらいいよと言わなければいけないような流れになる。

いいよ、といいたくないときもある。

いいよ、といってやりたくない、私だったのだ。

ごめんなさい
(と、もう相手にいえないのでここで言ってみたり。)


そして、立ち止まる機会になった。

実は随分前から気づいていた。
自分の言葉に混ざる、濁りに。


わたしが使う「ごめん」は、相手の気持ちを慮っていますというアピールの場合が多い。

じゃあほんとはもっと他の言葉があるじゃないかと振り返る。


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多様するようになったのは

なにより自分が
あやまって欲しかった。という想いがある。

アヤマッテヨ。

手繰れば、それは小さな頃。親に対しての想いだ。

ごめんとひとこといってもらえればすべては溶けるのにな、と。
頑なにその言葉がもらえないことは、私の自己肯定感ってやつをかなり下げた。

あの頃の憤りを慰めるように、報いるように
私は誰かに謝っている気がする。

(いや、謝るべきときは謝るんでいいんだが。)

慮ってほしい気持ちを渦巻かせ、誰かの「ごめん」を必要以上に乞うときがある。


親への想いはとっくに昇華したけど、(自分が子育てをしていくなかで継続的に癒されている)

いまだある種の癖として、こんがらがった意味をもたせてしまっているかもしれないな、「ごめん」という言葉に。

いちど解いて、いろんな角度から眺めてみたい。
それからもう1度
平らかに使えるように、受け取れるようになりたいと
受けとってもらえなかった言葉を手のひらで持て余しながら思った。

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そうだ。
小学生のとき。

1度だけ、父から真っ直ぐな「ごめんな」を受けとったときがあった。

あれは夢だったのかと思うほど
別人のように優しい静かな声で父は謝った。

びっくりして顔がみれなくて、代わりにじっと眺めた小さな棚の木目模様まで鮮明に覚えている。

嬉しかったんだよなあ。

すごくすごく。

それが、他意が一切ない本当に誠実な言葉だったから。

どんな台詞も、誠実に送られたらそれは「愛してる」と同義語だ。


わたしの使っている「ごめんなさい」は、誠実さのつもりが、いつのまにか濁っていたかもしれない。

嫌わないで欲しいという怯えや、ご機嫌伺いや、相手から安心できる言葉を引き出すための手段になっていたのかもしれない。

受け取らなかったあの人は、それを強く感じとったのだろう。
そしてちゃんと私に伝えた。
無視することも、適当に「いいよ」ということも出来たのに。

じゃあ

誠実さ を受けとったのは、私だったではないか。

それはわたしに送られたものではなくて、自分自身に対するものだったかもしれない。

でも、受け取れた今、それは私のギフトにもなったのだ。

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ごめんね
ごめんなさい

いちど解いて、いろんな角度から眺めてみたい。
それからもう1度
平らかに使えるように、受け取れるようになりたい。

今ならもう、それが出来る気がしている。