てっても ふっても

絵と本と珈琲が好きなポンコツかあちゃん。娘ウメちゃん 息子おもち とのプカプカな毎日 その考察。

巡りのなかにいる 1

去年末くらいから
汚泥のなかで蠢いているような期間があった。

自分のなかの時計がとまり、空気がとまり、腐っていく。

それをどうにもできないままただ過ごしていた。

生き物だから当然バイオリズムがある。

陽があり陰がある。

波に乗るようにそれらを繰り返して生きていくのが自然だ。

だけど今回の「陰」はなんだか随分と粘っこくしつこかった。

このまんまじゃ、まじでやばいぞ、と
貞子のようにズルズルと動いて

まずは家の掃除。
何も考えずただ体を動かせ。

掃除というより、とにかくものを捨てた。

視界にうつる空間に若干の余白ができ始めると
気持ちも楽になる。

何にも興味が持てなくなり、可能な限りの時間を毛布にくるまり、毒にも薬にもならぬようなネットの記事や漫画を読み漁る日々だったのが

ソファにこしかけ、何冊かの新しい本を読むようになる。

それが、「ああ、今読むべくして読んでいるのだな」と感じられるもので。


だいぶ『人と会っても大丈夫な自分』になったところで、示し合わせたように久しぶりの友人から会おうと連絡がくる。
何人かの、なつかしい友人と対話をした。

(人を招くにあたりまた家の掃除をした。)


とてもいい時間で。


その頃には随分と「脱皮」が一段落したような気持ちになった。

この「脱皮」
調子の悪くなったこの数カ月だけでなくて

ほんとはもっと前から始まっていたのかもしれないと気づいた。

1年前、父が亡くなった頃からだろうか。

それはおおきなきっかけだった。

でも、脱いだ皮はおそらく、もっととんでもなく前からわたしにこびりついていたものだった。

脱ぐのに随分な時間とエネルギーを要したんだな。
そりゃあそうか。
20年モノぐらいの皮だからな。

ああ、くたびれた。

気づけば立春

梅の花の色が泣けるほど愛おしく胸に入ってくる。


わたしはわたしのままだけど
どこか少しだけスッキリとして、鏡のなかから見つめ返してくる。

ほんの少しだけ。脱いだ皮の薄さだけ。

わたしはわたしのままだから

きっと無意識でいたら
また今までと同じような皮を纏おうとしてしまうだろう。

(だから、気がつくとまた同じ袋小路のなかで佇んでいるような気持ちになるんだ。)

だから少しだけ、意図的に歩き方を変えてみるとしよう。

このブログも全然書けなかった。

また書き始めます。


こんなで、ウメちゃんとおもちが可哀相だなあと思ってしまうけれど

最近こどもたちはますます元気で優しくおもしろい存在でいてくれている。

ありがたい。心から。